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浅間山など

長野市北部を流れる淺川は、その源を飯綱山(標高1917m)に発します。
山あいは流れが急ですが、長野市の市街地付近ではゆるやかな流れに変わります。
以前は、天井川で氾濫を繰り返していましたが、今では改修が進み天井川は解消、
氾濫も起きなくなりました。

稲田付近では、流れも緩やかで、川幅もぐっとせまくなります。
両岸の道路は一部、車も通りますが、散歩やジョギング道として多くの人に利用
されています。

長野市北部を流れる淺川



川中島古戦場近くの「千曲川」

長野市川中島付近の千曲川



雪の「浅間山」

浅間山



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テーマ : 写真日記
ジャンル : 日記

蘆花恒春園(建物)

徳富蘆花(徳冨健次郎)は明治元年(1868年)10月25日に現在の水俣市(熊本県)に生まれ、
4人の姉と5歳上の兄猪一郎(徳富蘇峰)がいました。

11歳の夏、健次郎は兄に連れられ同志社へ入学。退学復学を繰り返し明治22年5月、兄の経営
する民友社に入社し、雑誌や新聞に洋書の翻訳や作品の発表をして作家としての力をつけてい
きました。民友社時代の仲間には国木田独歩もいました。

明治27年5月蘆花と同じ熊本県出身東京お茶の水高師に在学中の原田愛子と結婚。この時蘆花
は27歳、愛子21歳で、当時としてはまれな共稼ぎでの生活を始めました。

明治32年「不如帰」(ホトトギス)で華々しい成功を収め、続いて出した「自然と人生」「思
出の記」等の成功によって作家としての地位を確固たるものにしました。

蘆花はトルストイの人道主義に共鳴し、明治39年4月上海、香港、コロンボ、エルサレムを経由
し、トルストイの住むヤスナヤーポリヤナ(ロシア)を訪れています。トルストイは別れに際し
「トクトミ君は農業で生活することはできないかね」と訊ね、蘆花はこの時自然の中で農業生活
を始めることを決心しました。

明治40年2月、蘆花は青山から東京府下北多摩郡千歳村字粕谷356番地(現在恒春園があるところ)
に移転。ここを永住の地と定め自らを美的百姓と称し、晴耕雨読の生活を送りつつ「みみずのたは
ごと」「黒い眼と茶色の眼」等の作品を書きました。         ・・蘆花記念館パンフレットより


記念館には蘆花の年譜のほか、トルストイからの手紙、スケッチ、農耕具などが展示されています。
明治の文豪の歩んだ道を静かに辿ってみるのも心楽しいひとときです。


蘆花夫妻が住んでいた居宅はそのまま保管され、中を見学することができます。(無料)
建物は、母屋、母屋につながった秋水書院、梅花書屋、愛子夫人居宅があります。



正面入口管理棟の先にある「蘆花記念館」 蘆花にまるわる様々なものが展示されています
蘆花記念館



丁度たけのこが生えていました。奥は秋水書院
秋水書院



奥の建物は秋水書院
秋水書院



秋水書院からの庭の眺め。身代わり地蔵が祀られています
秋水書院



身代わり地蔵のいわれ
屋敷内にある「お地蔵様」の由来



身代わり地蔵
お地蔵様



母屋入口
母屋入口



母屋玄関左側の部屋
母屋入口左の部屋



蘆花が愛子夫人のために購入した小タンス(明治41年)
蘆花が愛子夫人のために明治41年購入の小タンス



奥が母屋、右手が梅花書屋へ行く廊下(電話機とオルガンが置かれています)
奥が母屋、右手が梅花書屋へ行く廊下



日本最古級のアメリカ式リードオルガン(明治36年製造)
日本最古級のアメリカ式リードオルガン(明治36年製造)



梅花書屋
梅花書屋



梅花書屋に掲げられた額
梅花書屋に掲げられた額


梅花書屋建物入口  
梅花書屋入口



梅花書屋建物
梅花書屋



秋水書院 ベッドが置かれています
秋水書屋 寝室



秋水書院 大きなテーブルが
秋水書院の大きなテーブル



愛子夫人の住居 ※現在、梅花書屋と愛子夫人居宅は有料で借りることができます。(集会施設)
愛子夫人邸



庭から見た愛子夫人居宅
愛子夫人邸

テーマ : 写真日記
ジャンル : 日記

上田城跡

信州上田城は真田昌幸(名将真田幸村の父)により16世紀末に築城されました。
この城は、圧倒的な勢力を誇る徳川の大軍を2度も撃退したことで有名です。

しかし、関ヶ原の戦いで昌幸、幸村が西軍につき、戦に破れたため、徳川方の手により
破壊されました。これは、関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠軍が上田城で足止めをくい、
合戦に間に合わず、恥をかかされたことに対する報復の意味合いを持ちます。

真田氏のあと上田藩主となった仙石忠政は幕府の許可を得て寛永三年(1926)から城の
修復工事にとりかかりましたが、寛永五年に忠政が病死したため工事は中断となり、本丸
二の丸の御殿は造営されず、隅櫓七棟と櫓門二棟が造られただけでした。

仙石氏のあとを継いだ松平氏は城郭工事等はせず、上田城は未完成のまま明治維新を迎え
、廃藩後払い下げとなりました。

現在では西櫓、北櫓、南櫓の三棟が残っていますが、北櫓と南櫓は廃城のおりに市内に
移築され昭和18年から24年にかけて再移築されたものです。
西櫓は破壊も移築もされず当時のままです。


南櫓と櫓門
南櫓と櫓門


櫓門と北櫓
櫓門と北櫓


関ヶ原の戦い後の修復時のもの。当時からこの場に現存する西櫓
西櫓


西櫓を崖下からのぞむ(崖下は公園になっています)
西櫓を下からのぞむ


同じく西櫓を下からのぞむ
西櫓-2


北櫓を崖下からのぞむ
北櫓を下からのぞむ



土手の上が昔の「武者溜」(むしゃだまり)
武者だまり



本丸跡
本丸跡



崖下方面をのぞむ
崖の上からの眺望



真田十勇志
真田十勇志

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Author:tamachan
ボウスBOWS・ダイエット・健康食品ネットショップ「サプリタウン」
たま店長のブログです。

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