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惜別の歌 石碑(小諸義塾記念館)

小諸義塾の創設者である木村熊二は明治時代に女子教育に力を入れた教育者で、明治18年(1885年)には東京で明治女学校を創立しました。

木村は弘化二年(1845年)出石藩の儒者の子として京都に生まれ、江戸で学んだ後、京都で勝海舟の配下としても働いています。明治維新後アメリカに渡り、13年の留学生活を通じ西欧文化とキリスト教の信仰を身につけ、帰国後は高輪教会の牧師となり内村鑑三、新島襄らと親しく交わりながらプロテスタント指導者として活躍しました。

木村は、明治29年(1896年)小諸の青年小山太郎らの要請にこたえ、私塾「小諸義塾」を懐古園横に開設しました。その後、小諸町や有志の支援で明治32年に私立中学となり、島崎藤村ほか時代をリードする教師陣を招き以後13年にわたって佐久地方の青年教育に尽くしました。



小諸義塾記念館建物
小諸義塾記念館



小諸義塾記念館の説明文
記念館の説明(木村熊二)



小諸義塾記念館入り口
小諸義塾記念館入り口



小諸義塾記念館内部
小諸義塾記念館内部



島崎藤村写真(昭和8年)

藤村の四女柳子さんは南佐久郡臼田町井出五郎氏に嫁ぎました。写真は井出邸を訪れたときのもの

島崎藤村



小諸義塾記念館と惜別の歌石碑
記念館と石碑



惜別の歌石碑
惜別の歌の碑

作曲:藤江英輔(ふじええいすけ) 作詞:島崎藤村

1.遠き別れに 耐えかねて
  この高楼(たかどの)に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2.別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3.君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

4.君の行くべき 山川は
  落つる涙に 見えわかず
  そでのしぐれの 冬の日に
  君に贈らん 花もがな


惜別の歌
惜別の歌



「惜別の歌」中央大学学生歌

この歌は島崎藤村の詩に、藤江英輔が曲をつけたものです。藤村の原詩は明治30年に刊行された「若菜集」に収録された「高桜」(たかどの)です。(※当初は惜別の歌ではなく高桜だったということです)藤村はその前年に小諸に恩師木村熊二を尋ね、ともに懐古園周辺を散策した時に詩想を得たといわれています。

藤江英輔がこの詩に作曲したのは昭和19年暮れの太平洋戦争末期です。当時、中央大学予科生だった藤江は板橋の陸軍造兵廠(しょう)に学徒動員され兵器生産に従事していました。同じ工場で働く学友に日々召集令状が届き、再会のかなわぬ遠き別れが次々と続き、その言葉に盡(つ)きせぬ思いを、藤江はこの詩に託して曲を付したのでした。それはいつしか出陣学徒を送る歌となりました。

戦後、この歌が別れを惜しむ抒情歌として一般化したとき「高桜」が「惜別の歌」に、「かなしむなかれわがあねよ」(原詩)が「かなしむなかれわがともよ」と歌い替えられました。以後、この歌は中央大学の「学生歌」として歌い継がれることになりました。

 You Tubeでの歌声はこちらをクリック





テーマ : 写真日記
ジャンル : 日記

信州小諸懐古園2

信州小諸懐古園、園内案内の続き・・・


城内水櫓跡  水車を使って川の水を汲み上げ城内各所に給水したところ
城内水櫓(みずやぐら)跡


黒門橋 そろばん橋といい、空堀(堀切)の紅葉谷に架けられている
黒門橋



本丸跡
本丸跡



懐古園の碑  明治13年(1880年)に懐古園が作られた時の記念碑で題字は勝海舟の筆
懐古園の碑



懐古神社 明治13年(1880年)懐古園開園時に祀られた
懐古神社



鏡石  武田信玄軍師、山本勘助が愛用したと伝えられている
鏡石



天主台への路
天主台への路




島崎藤村像
島崎藤村像



島崎藤村と小諸
島崎藤村と小諸




藤村記念館
藤村記念館



水手不明御門跡(みずのてあかずのごもんあと)
水手不明御門跡(みずのてあかずのごもんあと)



水の手展望台からの千曲川を眺める
水の手展望台より千曲川を眺める




藤村詩碑  千曲川旅情のうた
藤村詩碑(千曲川旅情のうた)




草笛メロディー装置 横山祖道の草笛を奏でてくれます
草笛メロディー装置



草笛老師:横山祖道(宮城県出身) 昭和33年より、22年間毎日草笛を吹いていました
草笛老子:横山祖道(宮城県出身)


千曲川旅情のうた  草笛演奏




歌はこちら(鮫島有美子:You Tube)・・・


横山祖道を詠んだ歌
横山老子を詠んだ詩



推定樹齢500年以上のけやき  幹まわりは6.5メートル
幹まわり6.5メートルのケヤキ(樹齢500年)



荒神井戸  寛保の大洪水後に掘られたもので、城内唯一の井戸
荒神井戸



苔むした石垣
苔むした石垣



石垣
見事な石垣



紅葉ヶ丘
懐古園内「紅葉ヶ丘」

テーマ : 写真日記
ジャンル : 日記

信州小諸懐古園1

小諸懐古園は、小諸城の三の門から本丸にいたる城の中核部分を公園として整備した地域です。
小諸は島崎藤村ゆかりの地で、明治32年から38年まで小諸義塾の教師として教鞭をとるかたわら、
7年の滞在の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「落梅集」「旧主人」などの作品を発表、また、
長編「破戒」の起稿をしました。懐古園内には藤村記念館があり、藤村にまつわるさまざまなもの
が展示されています。(写真撮影不可で残念でした)

小諸城のルーツは古く、木曽義仲の家臣小室太郎光兼が現城址のそばに館を築いた事に始まります。
(養和元年:1181年)その後、佐久から大井氏が移り、長享元年(1487年)大井光忠が鍋蓋城を
大手門北側に築き、その子光為が現在の二の丸付近に乙女城(白鶴城)を築きました。大井氏の二
つの城は、天文年間に甲斐の武田信玄により攻略され、その武将山本勘助と馬場信房により城の縄
張(設計)がなされ、およそ現在の城の原型が作られました。懐古園の中には山本勘助が愛用した
と伝えられる「鏡石」があります。

明治4年(1871年)の廃藩置県で小諸城は役割が終り、明治13年(1880年)に神社を祀り(懐古神社)
、以後懐古園と呼ぶようになりました。


「小諸城三の門」国の重要文化財

元和元年(1615年)仙石忠政が創建しましたが、寛保2年(1742年)の大洪水により流出し
明和2年(1765年)牧野康満の代に再建されたものです。

重要文化財「三の門」


三の門に掲げられた「懐古園」の額   ・・徳川家達(いえさと)の筆によります
「懐古園」三の門の額


三の門の説明
三の門の説明文



三の門 両方の塀に矢狭間、鉄砲狭間が付けられた戦闘的な建物
三の門別角度



「三の門」懐古園側からの眺め
三の門内側より



二の丸跡
渡り矢倉の「二の門」があったところ。石段の上が二の丸跡で白鶴城があった。徳川秀忠が上田の
真田親子にはばまれ逗留した。


若山牧水の詩 「かたはらに 秋くさの花かたるらく ほろびしものは なつかしきかな」


二の丸跡&若山牧水詩


二の丸跡 旧白鶴城があった場所
二の丸跡




小諸義塾を開いた木村熊二のレリーフがはめ込まれている石垣
木村熊二レリーフが入った石垣



木村熊二レリーフ
木村熊二レリーフ



木村熊二に関する説明
木村熊二の説明



南丸跡 南丸は昔武器庫があった場所
南丸跡



北の丸跡 隠居所があった場所で、現在は小諸懐古射院として利用されている(和弓)
北の丸跡



黒門跡  一の門が建っていたところ
黒門跡



懐古園稲荷神社
懐古園稲荷神社



稲荷神社由緒
懐古園稲荷神社由緒

テーマ : 写真日記
ジャンル : 日記

プロフィール

Author:tamachan
ボウスBOWS・ダイエット・健康食品ネットショップ「サプリタウン」
たま店長のブログです。

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